●〔弔辞までも実情とは真逆の言葉を平然とのたまう安倍〕
今年10月9日、沖縄県那覇市で、翁長前知事の県民葬が執り行われました。そのなかで菅義偉が、安倍の弔辞を代読したのですが、菅が読み終わろうとするときに「嘘つき!」「帰れ!」といった怒号が飛び交いました。それもそのはずです。安倍は弔辞までも実情とは真逆であるいつものセリフを平然と並べ立てたからなのです。それが下の弔辞です。
「翁長前知事は、沖縄に基地が集中する状況を打開しなければならないという強い思いをおもちでした。基地負担の軽減に向けて、一つひとつ確実に結果を出していく決意であります。そしてこれからも、沖縄県民の皆様の気持ちに寄り添いながら、沖縄の振興・発展のために全力を尽くしてまいります」
みてもわかるとおり、これらのセリフは安倍がこれまで辺野古新基地建設を推進する際にいつも使ってきたセリフでした。「基地負担軽減に向けて」とか「沖縄県民の気持ちに寄り添いながら」などと毎度のたまいながら、実際は、沖縄県民の気持ちをまったく無視して今日まで新基地建設に向けて強引に推進してきたわけです。ですから、弔辞までこうした真逆のセリフをのたまわれたら、沖縄県民が怒るのは当然なのです。
この怒号については、稲嶺元沖縄県知事もインタビューに対して次のように答えています。「本来は、悼む場というのは非常に静粛であるべきである。しかし止むにやまれぬ思いで出た人もいる。その人たちの気持ちもこれもわかりますからね。そういうことがないような時代に早くなってほしい」。
●〔県民葬での怒号に対する賛否両論〕
ただ、今回の県民葬での怒号については、「礼儀に反する」とか「不謹慎だ」とかいう反応もあったようです。しかし、そうした反応に対して茂木健一郎がツイッターとブログでそれぞれ次のように反論しています。以下、ブログのほうを引用します。
菅官房長官にお声がかかった件について考える
連続ツイート2162回をお届けします。文章はその場で即興で書いています。本日は、「菅官房長官にお声がかかった件について考える」について。
沖縄で行われた翁長さんのご葬儀で、菅官房長官が弔事を述べられ、そのあと献花された際に参列者からお声がいろいろかかったと報じられている。動画で確認すると、弔事をおっしゃっている間にもいくつかかかったが、終えられた後にお声が大きく、多くなったようである。
稲嶺元知事が、「静粛であるべき場ではあるが、気持ちはわかる」とおっしゃっていた。ポイントはここだろう。礼儀としてどうか、ということもあるが、何よりも、気持ち、感情の問題として、菅官房長官にお声をかけたくなったのである。
政治家として、ましてや、中央と沖縄という関係の中で、気をくばるべきことは礼儀の問題よりも、人々の生の声、その背後にある気持ちだろう。だから、菅官房長官はお気の毒であり、不本意でもあったろうが、その際にかかった声の背後にある沖縄の気持ち、感情を受け取るべきだろう。
菅官房長官が代読された安倍首相のメッセージ自体は、その文字をたどれば立派なものだった。「沖縄の方々の心に寄り添い」という趣旨の文言もあった。それでもあのような声がかかったのは、今までの中央政府の姿勢が、いわば、そのような言葉とは真逆だったからだろう。
菅官房長官の「沖縄の方々の心に寄り添い」という言葉を素直に受け取って「頼むぞ!」「待っているぞ!」「いよっ、官房長官!」「日本一!」といった声がかからなかったのは、「そんなこと言って、またどうせゴリ押しでくるんでしょう」という不信感があったからにほかならない。
本当に沖縄の方々の心に寄り添う気があるんだったら、既定路線に従ってゴリ押しするのではなく、真摯に話し合って、アメリカにも掛け合い、たとえば菅さんや安倍さんが沖縄に入ってタウンミーティングすればいい。そうする気がどうせないだろうと思われているから、あのようなお声がけになる。
今回菅官房長官へのお声がけについて、礼儀に反する、不謹慎だといった反応があるが、これほど物事の本質を外した論はない。社会的変化は、礼儀だとかそういうことをとっぱらった感情のやりとりによってしか生まれない。アメリカ公民権運動の歴史を見よ。日本における「礼儀」は単なる思考停止である。
以上、連続ツイート2162回、「菅官房長官にお声がかかった件について考える」をテーマに、7つのツイートをお届けしました。
補足。ましてや、お声掛けをされた方々が「プロ市民」だみたいな揶揄に至っては、笑止千万。日本の一部の型の思考は自分で感じ、考える気配がゼロの「テンプレ」化しているようだ。
(引用元 : 茂木健一郎オフィシャルブログ)
以上ですが、そうすると今度は、茂木のこの発言をみた東京のとある葬儀屋が、ツイッターでこれに反論してきました。次のとおり、数回にわたってツイートしています。
弔辞は主催側から依頼されて読ませて頂くもので、首相・官房長官は県側から依頼されて弔辞を申し上げています。そこに野次を飛ばすのは、主催した県、そして故人の面子を潰す事になるので、礼儀上やってはいけない事は儀礼屋から申し上げます。
(19:25 – 2018.10.10)
って言うか一般の葬儀でも、葬儀屋が止めますよ、これ。
(19:26 – 2018.10.10)
葬儀は静粛に進められるべきものだし、弔辞の最中に弔辞拝読者に怒声をあげるのは弔いの場として相応しくない。こういうのは立場で賛成反対する事ではなく。尊重されるべき最低限でそれが守れない人は葬送の場に来てはいけないのが常識です。(21:00 – 2018.10.10)そう言えば、そんな法律あったな思ったらコレだ。刑法第188条第2項説教等妨害罪「説教、礼拝又は葬式を妨害した者は、1年以下の懲役若しくは禁錮又は10万円以下の罰金に処する」で法律にも違反してますが、なにが思考停止なんでしょうね。違法だから当たり前にアウトって意味でしょうか?(3:20 – 2018.10.11)
沖縄県民葬の弔辞の野次が明らかなマナー違反で、その事に対して思想的な立場から擁護しようとしても上手くいかなったように、この国の人達は本当に大事な事を守れる力があるし、葬儀の世界では僕がいるんで、お前らのしたい様にはしねーよ絶対!って三沢さんの言葉をお借りして叫ぼう。(20:27 – 2018.10.11)
●〔「礼儀」「秩序」に執拗にこだわるのは強者に飼い慣らされているだけ〕
うえの茂木健一郎と葬儀屋の意見はそれぞれ一理あると思うのです。が、今回のような事例の場合に私がどらに軍配を上げるかと言ったらそれは断然、茂木健一郎のほうです。逆にいうと葬儀屋の意見には賛同できないのですが、私がそのように考える理由は大きく二つあります。
一つめは、この葬儀屋は「礼儀」に執拗にこだわり過ぎているということです。葬儀屋というだけあり、礼儀を大事にするのはわかるのですが、物事にはケースバイケースというものがあります。今回の場合は特にそうです。そもそも安倍や菅といった連中はこれまで沖縄県民に対して礼儀を欠いきたわけであり、前述のとおり、弔辞にまでも礼儀を欠いたセリフを盛り込んできたわけです。こういうものは沖縄県民でなくても怒りが込み上げますし、その怒りは当然表わすべきなのです。なぜなら黙っていたら、礼儀を元々欠いている安倍や菅の思うツボだからです。
それはどういうことか。そもそも日本人は昔から「礼儀」「秩序」といったものに厳しかったり大事にしたりするところがあるわけです。が、これは日本人が先祖代々元々そうしたものをもっているというよりも、これまでの非民主的な軍隊式の学校教育や、宗教教育(特に儒教)によって刷り込まれているところが大きいのです。そして、身も蓋もない言い方をすれば、その刷り込みの理由も、強者(首相・社長・先生)が、弱者(国民・社員・生徒)を支配しやすいように飼い慣らすため、という狙いが大きいのです。
その証拠は安倍のこれまでの言動にもまさに表れています。これまでのブログでも散々述べてきたように、安倍は「礼儀」「秩序」を大事にしないどころか、それらを片っ端から壊して回っているわけです。しかも安倍は、それでいながら国民に向けては、「道徳」の教科化や、「教育勅語」の復活を熱心に進めてきたわけです。自分を棚上げして国民にそういうものを押し付けるというのはどういうことなのか。それこそまさに安倍は「道徳」や「教育勅語」に書かれてある内容そのものには価値を認めていないということ。すなわち、自分の思いどおりに国民を飼い慣らすための手段としてただそれらを利用しているだけだ、という話になるわけなのです。実際、安倍はそのとおりの言動をしてきているわけですから、これに対して安倍には一切の反論の余地はありません。
要はだからこそ、そうした安倍の思うツボにならないようにするためにも、「礼儀」にもあまり囚われるべきではないということ。つまり、今回のようにたとえ静粛な県民葬の場ではあっても、元々礼儀を欠いているのは安倍のほうなのです。ですから、そうした連中に対しては、当然わき起こる怒りの感情を遠慮せずにぶつけるべきだというわけなのです。
●〔そもそも怒号をいちばん喜んでいるのは、翁長前知事本人である〕
それから二つめの理由は、葬儀の本来の意義は故人を弔うことであるにもかかわらず、この葬儀屋は礼儀に囚われるあまり〝礼儀を守ることが目的化〟していて、肝心な〝故人の気持ち〟を無視しているということです。「基地負担軽減に向けて」とか「沖縄県民の気持ちに寄り添いながら」といった安倍のこれまでの上辺だけの言葉にいちばん苛立ちを覚えていたのは、なんといっても新基地建設反対を先頭に立って訴えてきた翁長前知事本人においてほかにいないでしょう。その意味でも、今回の安倍の弔辞に対して「嘘つき!」「帰れ!」といちばん憤りを覚えたのは翁長前知事だったはずなのです。
ちょうどそのときまさに「嘘つき!」「帰れ!」という大きな怒号が飛び交い始めたわけです。沖縄県民のこの怒号にはおそらく、彼らの怒りだけでなく、翁長前知事の気持ちを代弁する意味と、安倍のせいで命を縮めたともいえる故人に対するねぎらいの意味も込められていたに違いありません。その意味でも、この怒号を聞いた翁長前知事にとってはまさに、これ以上ない喜びと幸せにこのとき包まれたのではないかと私は察するのです。「私の大事な旅立ちの日によくぞ言ってくれた!最後の最後まで私と共に闘ってくれた沖縄県民よ、ありがとう!」というふうに逆に感謝さえしたのではないかと思うのです。
私は長らくあの世の研究をしてきていることからも、翁長前知事はまさにそのように感じているだろうなぁという気がするのですが、翁長前知事のこの最後の感情というのはことのほか重要なのです。というのも、この世を旅立つ最後の最後までそうやって沖縄県民と気持ちを共有できたということは、道半ばであった氏にとっては、それがせめてもの救いになったはずだからなのです。氏にとってはその感情がこの世での最後の思い出となり、安心・満足してあの世に旅立つためのまさに〝冥途の土産〟になったのではないか。私はそのように思っています。