●〔柴山文科相の発言にも表れている安倍の改憲に対する思い入れの強さ〕
前回のブログ(「安倍の、安倍による、安倍のための内閣改造」)のなかで私は、今回の内閣改造は安倍のために野球をする人選になっていると述べ、さらに選手の具体的な仕事を三つ挙げました。その三つのなかでも安倍が特に力を入れているのはなんといっても、自身の悲願でもある「改憲」だと思うのです。それが如実に表れているのは、第一に、閣僚19人中14人が「改憲」に熱心な日本会議の会員であり、かつ全員が神道議連だということ。第二に、文科相に抜擢された柴山昌彦が、就任記者会見で「教育勅語」の認識を問われた際に、次のように答えたことです。「教育勅語についてはアレンジをした形で道徳などに使える分野は充分にある。普遍性をもっている部分がみてとれる」「同胞を大事にするなどの基本的な内容について現代的にアレンジして教えていこうという動きがあり、検討に値する」。
柴山のこの発言は特に象徴的です。というのも、教育勅語は言うまでもなく、かつて戦争に利用された歴史があります。安倍は戦争ができるようにするための改憲を目論んでいるわけですが、教育勅語の精神を再度、日本人に刷り込めば、戦争ができるようにするための改憲もスムーズにいくでしょう。また、改憲後にいざ戦争する場面が出てきた際に国民をスムーズに戦場へ送り出すことも可能になるわけです。つまり、教育勅語は、安倍の悲願である改憲と非常に親和性が高く、安倍にとってはまさに自身のバイブルともいえる代物です。そのような教育勅語を肯定する柴山を文科相に抜擢したということは、それだけ安倍の改憲に対する思い入れの強さが表れている証左だというわけです。
●〔教育勅語の欺瞞と危険性〕
ところで、柴山の発言に対しては当然ですが最近、野党などが批判を強めていますし、ツイッターなどでも、教育勅語の危険性があらためて指摘されるようになりました。作家の高橋源一郎が以前に教育勅語をわかりやすく現代語訳しているのですが、最近はこれも再びツイッターなどに出回っています。この現代語訳をみると、一見しただけで教育勅語の欺瞞と危険性がわかります。「AERA dot.」が2017年4月20日にアップした高橋源一郎訳によるその教育勅語を下に引用します。文中のブルー、イエロー、ピンクのマーカーは私が付けました。それぞれ信号機の色に例えて危険度を示しています。
(前略)
■高橋源一郎「現代語全訳」
『はい、天皇です。よろしく。ぼくがふだん考えていることをいまから言うのでしっかり聞いてください。もともとこの国は、ぼくたち天皇家の祖先が作ったものなんです。知ってました?とにかく、ぼくたちの祖先は代々、みんな実に立派で素晴らしい徳の持ち主ばかりでしたね。君たち国民は、いま、そのパーフェクトに素晴らしいぼくたち天皇家の臣下であるわけです。
そこのところを忘れてはいけませんよ。その上で言いますけど、きみたち国民は、長い間、臣下としては主君に忠誠を尽くし、子どもとしては親に孝行をしてきたわけです。その点に関しては、一人の例外もなくね。その歴史こそ、この国の根本であり、素晴らしいところなんですよ。そういうわけですから、教育の原理もそこに置かなきゃなりません。
きみたち天皇家の臣下である国民は、それを前提にした上で、父母を敬い、兄弟は仲良くし、夫婦は喧嘩しないこと。
そして、友だちは信じ合い、何をするにも慎み深く、博愛精神を持ち、勉強し、仕事のやり方を習い、そのことによって智能をさらに上の段階に押し上げ、徳と才能をさらに立派なものにし、なにより、公共の利益と社会の為になることを第一に考えるような人間にならなくちゃなりません。もちろんのことだけれど、ぼくが制定した憲法を大切にして、法律をやぶるようなことは絶対しちゃいけません。よろしいですか。
さて、その上で、いったん何かが起こったら、いや、はっきりいうと、戦争が起こったりしたら、勇気を持ち、公のために奉仕してください。
というか、永遠に続くぼくたち天皇家を護るために戦争に行ってください。
それが正義であり「人としての正しい道」なんです。
そのことは、きみたちが、ただ単にぼくの忠実な臣下であることを証明するだけでなく、きみたちの祖先が同じように忠誠を誓っていたことを讃えることにもなるんです。
いままで述べたことはどれも、ぼくたち天皇家の偉大な祖先が残してくれた素晴らしい教訓であり、その子孫であるぼくも臣下であるきみたち国民も、共に守っていかなければならないことであり、あらゆる時代を通じ、世界中のどこに行っても通用する、絶対に間違いの無い「真理」なんです。
そういうわけで、ぼくも、きみたち天皇家の臣下である国民も、そのことを決して忘れず、みんな心を一つにして、そのことを実践していこうじゃありませんか。以上!明治二十三年十月三十日天皇
とまあ、サクっと訳したので、若干間違いあるかもしれませんが、だいたい、いい線いってると思います。自分で読み返して思ったんですが、これ、マジ引くよね……』
(後略)
(引用元 : AERA dot.「作家、高橋源一郎氏の現代語訳「教育勅語」が話題!!」 2017.4.20)
これを見るとまさに欺瞞と危険性に満ちており、特にイエローとピンクで示した箇所は、現憲法とも相いれません。それゆえ教育勅語は戦後、使用禁止になったわけです。にもかかわらず、安倍政権になってからこれを復活させようとする動きがあり、今回だけでなくこれまでにも、「教育勅語は一部利用できる」などといった発言をする自民党議員が何人も出てきているわけなのです。そうした危険な状況が訪れているゆえ、彼らに騙されないようにするためにも、ここからは、教育勅語を復活させたがる彼らの欺瞞を暴いていきたいと思います。
●〔安倍政権が教育勅語の利用にこだわる理由〕
まず、彼らの言う「一部利用できる」とか「アレンジして使える」などという部分についてですが、これは柴山の発言からも察せられるとおり、おそらく、私がブルーで示した次のような部分のことなのでしょう。
「父母を敬い、兄弟は仲良くし、夫婦は喧嘩しないこと。そして、友だちは信じ合い、何をするにも慎み深く、博愛精神を持ち、勉強し、仕事のやり方を習い、そのことによって智能をさらに上の段階に押し上げ、徳と才能をさらに立派なものにし」
ただ、これは見てわかるとおり、べつにアレンジしなくても普通に道徳の教科書として使えそうです。というより、こういうことならわざわざ教育勅語を利用するまでもなく口で言えばすむ話です。つまり教育勅語を利用する意味はないわけです。ということは、安倍政権が教育勅語の利用にこだわる理由はそれ以外の文言にあるということになります。要は、教育勅語には書かれていて、道徳の教科書には書かれていない(書けない)部分がそうだということです。私がイエローとピンクで示した箇所がまさにそうなのでしょう。要は、教育勅語の次の箇所を巧妙にアレンジした形で国民に刷り込みたいというのが安倍政権の狙いなのだと思います。
「なにより、公共の利益と社会の為になることを第一に考えるような人間にならなくちゃなりません。もちろんのことだけれど、ぼくが制定した憲法を大切にして、法律をやぶるようなことは絶対しちゃいけません。よろしいですか。」
「さて、その上で、いったん何かが起こったら、いや、はっきりいうと、戦争が起こったりしたら、勇気を持ち、公のために奉仕してください。というか、永遠に続くぼくたち天皇家を護るために戦争に行ってください。それが正義であり「人としての正しい道」なんです。そのことは、きみたちが、ただ単にぼくの忠実な臣下であることを証明するだけでなく、きみたちの祖先が同じように忠誠を誓っていたことを讃えることにもなるんです。」
イエローの部分の、公共の利益と社会の為になることを考えることや、法律を守ることは、たしかに国民に求められることだと思います。しかし、「公共の利益を第一に考えなければならない」とか、「憲法を大切にしなければならない」といった話になると、現憲法と相いれませんし、これは明らかに「国家主義」の思想に導くものだとわかります。
そして、さらに問題なのは言うまでもなくピンクで示した箇所です。これはまさに露骨すぎて道徳の教科書には当然書けないわけです。だからこそ安倍政権は、こうした部分こそをアレンジして利用したいというのが本音なのでしょう。つまり、彼らのいう「アレンジして」という部分は、私がブルーで示したところではなく、イエローやピンクで示した露骨な部分だということです。そして「アレンジして」というのも、これも率直にいうと「内容は変えずに(国民を騙すために)表現だけを巧妙にごまかして」という意味です。
要は、そうやって巧妙に手を加えた教育勅語の精神をそっくりそのまま国民に刷り込みたい、というのが安倍政権の狙いだというわけです。
●〔教育勅語の思想信条を堂々と吹聴するようになった自民党議員〕
安倍政権がそのように考えていることはまさに自明なのです。というのも、驚くことに近年の自民党議員は、まさに教育勅語に書かれているような自らの思想信条を、内輪の講演や保守系番組のなかで堂々と吹聴するようになっているからです。以前、自民党の長勢甚遠が、日本国憲法の三原則(国民主権・平和主義・基本的人権の尊重)に否定的な発言をしていることは、私のブログ(「安倍は民主主義に生きる国民を嫌っている(憎んでいる)」)の中で引用したとおりです。じつはこの手の発言をする議員が自民党内にはうようよしており、少しまえには、「日本文化チャンネル桜」の番組のなかで、自民党の佐藤正久も次のように発言しているのです。文中の()は私が補足しました。
「個人の権利、個人の権利、個人の権利、バカじゃないかと。そこはまさに、そういうもっと大きなものを護るために、個人の権利を抑えて、今はこうですよ(戦争で犠牲になれ)というふうに。(中略)そういう意味で、憲法にそういう精神(戦争で犠牲になれ)の規定もないから余計弱いのですよ。(中略)憲法にそういう緊急事態条項とかあれば、もっと多分、軽易に、緊急事態を法律に基づいて発令(戦争で犠牲になれと命令)できたのかもしれない」
また、元防衛大臣であり、安倍のお気に入りでもある稲田朋美に至っては、これよりもさらに露骨な発言を、過去に内輪の講演で以下のとおり行なっています。
「国民の生活が大事なんて政治はですね、私は間違っていると思います。いま私たちが生きているのは、私たちのいまの生活だけが大切なんじゃなくて、先人から引き継いできた(中略)世界中で日本だけが道義大国を目指す資格があるのです」
「国民の一人ひとり、皆さん方の一人ひとりが、自分の国は自分で守る。そして自分の国を守るためには、血を流す覚悟をしなければならないのです。この決死の覚悟なくして、この国は守れません」
これらの発言はまさにただの右翼です。これが現役の政治家の発言であることに驚愕するばかりですが、自民党議員のこれらの発言からもわかるように、口に出さないだけで安倍も同じ考えをもっていることは明らかです。というより、過去のブログでもさんざん述べてきたとおり、安倍はそもそも国民のことなど眼中にありません。だからこそ安倍政権の連中は、安倍のそうした意志に則って、教育勅語の復活や改憲を目論んでいるわけなのでしょう。彼らの狙いは言うまでもなく、国家主義の樹立および、国民に対して、戦争で国のために命を犠牲にするまさに「国家の奴隷」の精神を刷り込むことなのです。
●〔教育勅語の復活は安倍の意向による〕
それにしても、これほど危険で使用禁止になったほどの教育勅語であるにもかかわらず、なぜ近年になって、「一部利用できる」「アレンジして使える」などと発言する議員が出てきたり、そうした発言がまかりとおったりする日本になったのでしょうか。これはやはり安倍の意向が働いた結果のようです。元文科相の下村博文が、元文科省事務次官の前川喜平に対して、教育勅語の使用を認めるように答弁を書き直させた、といった趣旨のことを報じている「LITERA」の記事を下に添付します。この記事を読むと、教育勅語の復活から今回の柴山文科相の発言に至るまでの経緯がよくわかります。
(前略)
安倍政権下で復活をとげた教育勅語、学校教育への使用を解禁
しかし、戦後も教育勅語は、明治憲法の復元や皇室の権復を狙う「右翼」(国家主義者や民族主義者ら狭義の「右翼」のことであって、いわゆる「戦後保守」のことではない)や神道関係者、宗教者らを中心に脈々と引き継がれながら、今日に至った。一方で、戦後日本政治の文脈において、この教育勅語をもっとも国粋主義的な支配構造の再現に利用せんとし、表舞台に引きずり出したのは、やはり、安倍政権をおいてないだろう。
そもそも、戦後の政権は学校教育における教育勅語の使用を否定してきた。それが様変わりしたのが、第二次安倍政権の2014年4月8日、参院文教科学委員会でのことだ。当時、みんなの党所属の参院議員だった和田政宗がこう質問した。
「私は、教育勅語について、学校、教育現場で活用すればとても良い道徳教育になると思いますが、米国占領下の昭和二十三年に国会で排除決議や失効確認決議がなされています。こうした決議は関係なく、副読本や学校現場で活用できると考えますが、その見解でよろしいでしょうか」
これに対し、当時の文科省・初等中等教育局長は「教育勅語を我が国の教育の唯一の根本理念であるとするような指導を行うことは不適切である」と従来の見解を維持しながらも、それとは矛盾するこんな答弁を続けた。
「教育勅語の中には今日でも通用するような内容も含まれておりまして、これらの点に着目して学校で活用するということは考えられるというふうに考えております」
それ以降、国会では教育勅語について「今日でも通用するような普遍的な内容も含まれている」「内容に着目して適切な配慮のもとに活用していくことは差し支えない」との政府側答弁が踏襲されていき、前述のとおり、昨年3月には「憲法や教育基本法に反しないような形で教材として用いることまでは否定されない」との答弁書が閣議決定されたわけだが、実は、この2014年4月8日の答弁をした初等中等教育長というのは、あの前川喜平・元文科事務次官だった。
周知の通り、前川氏は現在、さまざまなメディアで、教育勅語を学校教育で使用することに極めて否定的な見解を示している。たとえば、本サイトでの室井佑月との対談のなかでも、教育勅語に関連してこのように述べていた。
「親学は“家族が社会の単位”という考え方です。個人であることよりも家族の一員、一族の一員であることが大事だという。この家族主義的考え方は、じつは、戦前の国体思想でもある。戦前の教育勅語で示されている考え方です。そして、そのベースには家父長制の家制度があった。そこでは親孝行こそ最大の美徳になる。家族なんだからという理屈ですべてを吸収してしまう。そして日本国は、大きな一つの家族だ。その本家の本家の総本家が天皇家で、辿れば天照大御神。すべての国民は天照大御神の子孫であり、天皇家の分家の分家の分家だ、みたいなね。こうして『孝』と『忠』が一本につながる。こういう家族国家観に基づく教育が安倍さんが進めたい道徳教育なんだろうと思います」
そんな前川氏が、どうして、条件付きであったとしても教育勅語の学校教育での活用を認めるような国会答弁をしたのか。
前川元次官が証言!「教育勅語は適切でない」答弁を下村文科相が書き直し命令
背景には、安倍政権の直接的な介入があった。実は、このとき、前川氏の局長答弁は下村文科相によって変更を余儀なくされたというのだ。
前川氏自身が昨年、ある講演会のなかで「加計学園問題よりも私が抵抗できなかったもっと大きな問題は、教育の右傾化といいますか国家主義化の動きを十分に止められていない。こっちのほうがもっと大きい責任を感じているんです」と告白したうえで、一例として“教育勅語答弁”をこう回想している。
「たとえば、こういうことがありました。教育勅語について、明日の委員会で質問がある。どういう質問かというと『教育勅語は学校の教材として使うべきだと思うがいかがか』と。それを局長に訊くというので──私がその局長なんですけど──私の答弁は従来の文部科学省のラインで、教育勅語は戦後、排除・無効確認の決議が行われていて、これを教育の理念として使うことはできません、と。そして、学校の教材として使うことについても適切ではないと(いう答弁を予定していた)。こういう答弁で(文科省は)ずっときているわけです、70年間」
ところが、委員会当日の朝、直前の大臣へのレクの際、前川氏は下村文科相から直接、教材としての使用を認めるよう書き直しを命じられたという。
「委員会がある日は朝、大臣と一緒に、こういう質問がありますからこういう答弁にしましょうという“答弁レク”っていうのをするんですね。その朝の答弁のレクのときに大臣がですね──普通は大臣の答弁だけ説明するんですが──この質問についてだけは局長答弁も見せろと言われて。『こうなってます』と見せたら『これじゃダメだ』と言われたわけです。答弁の最後に『教育勅語のなかにも普遍的に通用することが書いてあるので、この点に着目して学校の教材として使用することは差し支えない』と書き直せと言われたんです」
前川氏は「明らかに違法や違憲でない限りは、組織の上司である大臣の命令に従わないわけにはいかなった」と振り返るが、それでも、答弁に立った際は躊躇して「『差し支えない』ということはどうしても私の口からは出てこなかった」。実際、当時の国会では、前川局長答弁が終わると下村文科相自らがわざわざ手を挙げて答弁。局長答弁にはなかった「教材として使う」ことについて駄目押しを図るために「差し支えない」と明言した。
「その内容そのもの、教育勅語の中身そのものについては今日でも通用する普遍的なものがあるわけでございまして、この点に着目して学校で教材として使う、教育勅語そのものではなくて、その中の中身ですね、それは差し支えないことであるというふうに思います」(下村文科相、国会議事録より)
もうお分かりだろう。今回の柴山文科相による「(教育勅語を)道徳等に使うことができる分野は十分にある」「現代的にアレンジして教えていくことは検討に値する」との発言は、安倍政権が主導する極右国家主義教育の政治的な動きのなかで出てきたものなのである。
だいたい、柴山文科相が言うように「アレンジ」せねばならないシロモノならば、学校教育で使う正当な理由などハナから存在しない。ようは、政権が求めているのは「徳目」の内容ではなく、戦前に教育勅語が果たした国民支配の「機能」のほうにこそある。そのことを、この新文科大臣は言外に暴露しているのだ。
いずれにせよ、近い将来、安倍首相が教育勅語的な極右教育の復活のギアを、さらに一段階あげてゆくのは火を見るより明らかだ。何度でも言う。教育勅語は、天皇を頂点とするイデオロギーの強力な洗脳装置として、無辜の市民を破滅的戦争へと狩り出し、殺し、殺させた。その事実を、ゆめゆめ忘れてはならない。
(編集部)
(引用元 : LITERA「柴山正彦文科相『教育勅語』復活は安倍政権の総意!前川元次官も証言していた『教育勅語を使えるうにしろ』の圧力」2018.10.4 )
●〔自分の頭でしっかり考えることの重要性〕
というわけで以上ですが、これまでみてきたように危険な教育勅語の復活は安倍の意向ですし、安倍は「改憲」に力を入れて勝負をかけてきています。ですから、これからはまさに国民にとっても正念場であり、これまで以上に油断は禁物です。過去の私のブログ(「安倍と石破、どちらが危険か? 判定する」など)でも示したとおり、非情な安倍は国民の命をなんとも思っておらず、またそれゆえに国民を騙してでも改憲を実現しようとしています。このように非情・卑劣な安倍のもとで改憲を許したら、今後、日本や国民がどうなるかは火を見るより明らかです。ですから、これからは特に安倍および安倍政権の言動をよくチェックし、また周囲の空気に流されずに、自分の頭でしっかり考えるようにしておかないと、必ず後悔することになると思います。